黒船来航により、日本で一番最初に港が開かれた街、下田の記念博物館

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「ペリー日本遠征記」上院版

「ペリー日本遠征記」上院版

2020年11月の逸品

ペリーの日本への遠征の記録です。上院版と言って、3冊1セットでアメリカの議員や政府の役人に配る為に5,000部出版しました。その後一般販売用として数万部を再版しました。また1冊にまとめたものなどが出版されました。当館は何れも所蔵していますがここに掲載のものは上院版です。ペリーは日本の政治の仕組みや、動植物、地理・気候などあらゆる事を調べるために学者や記録係として画家や写真師も連れてきました。中央のが本文で、鳥の絵のあるのが動植物の調査報告、天文図に見えるのが、地理などの報告書です。下田のことも詳しく書いてあります。例えば「下田の街路は巾20フィートあり石が敷かれている。下水もあって清潔で健康的でアメリカより遙かに進んでいる。」、「民衆は控えめであるが快活な態度」とか「乞食を見ることが希」とか随分ほめています。だたし、公衆浴場が混浴であることはキリスト教徒の彼らには「淫蕩な人民」と写ったようです。この絵が下田の公衆浴場の絵で、アメリカでも非常に評判になったそうですが、「卑猥な絵」と言うことで再版本からは削除されています。

スサリ崎台場の図

2020年10月の逸品

幕末、外国船が我が国の沿岸に出没するようになり、伊豆半島の南端下田は海防の重要地点として、寛政5年(1793)、幕府は勘定奉行久世丹後らに調査させ、次いで老中松平定信が400名の共揃えで下田・南伊豆の沿岸を巡視染ました。天保12年(1839)目付地鳥居耀蔵、韮山代官江川英竜が調査、下田などに台場(砲台)築造の意見書をだしました。天保14年(1841)伊豆東海岸の富戸、川奈、稲取、白浜、下田湾東岸のスサリ崎、西岸の狼煙崎の6ヶ所に「台場が築かれました。この図はそのスザリ崎台場の図です。

プチャーチンのカバン

2020年9月の逸品

ロシア使節プチャーチンは、北方の国境画定と日本との通商の協議のためディアナ号で下田へ来航しました。下田到着後の1855年1月14日(嘉永7年11月26日)、大津浪に襲われディアナ号は大破し、修理のため戸田村(現沼津市戸田)に向かう途中、富士沖で風波が強く沈没してしまいました。ロシア将兵約500人全員と重要書類などは付近の住民に助けられ、戸田まで送り届けられました。ロシアの将兵は戸田で代船を建造し、またアメリカの船をチャーターして故国へ帰るのですが、戸田や下田には「プチャーチンのカバン」など多くの遺品が残されています。