幕末に伊豆半島の海防を担った
豊富な遺品や資料で、ペリー来航の目的や黒船、開港場となった下田の役割などを明らかにします。1853年、浦賀沖に来航したペリーは、翌年再び日本を訪れ、江戸幕府との間で日米和親条約を結びます。その結果、下田は日本初の開港場となり、開国後の日本における外国人との交流の先駆けとなりました。
日本とロシアの交流は、下田からはじまります。他に類を見ない多くの遺品と資料で、日本とロシアの交流の歴史を明らかにします。1854年、ペリー艦隊が下田を去ってから4ヶ月後に下田を訪れたプチャーチンを、安政の大地震が襲いました。プチャーチンらのディアナ号は沈没してしまいますが、伊豆の人々と協力して建造した日本初の洋式船「ヘダ号」にて無事帰国し、まさに日露交流のはじまりといえるでしょう。
ハリスの遺品と彼に関する資料を紐解き、日米修好通商条約を結び日本開国に導いたハリスの役割や、領事館での生活を展示しています。1856年に秘書のヒュースケンを連れて下田に来日したハリスの日本における主な任務は、幕府との間で通商(自由貿易)を結ぶことでした。条約締結までを下田で過ごしたハリスの生活からは、地元の少年らを従者にしたり、体調を崩して牛乳を求めたりと、あまり知られていない一面も垣間見えます。
幕末の下田生まれ、下田育ちで有名な人物が2人います。一人は「日本写真術の開祖」下岡蓮杖です。蓮杖は、外国人の教えや独自の探求により写真術を習得すると、横浜で日本人初の商業写真館を開いた下田生まれの人物です。もう一人は、看護人の名目でアメリカ初代総領事のハリスに仕えた「唐人お吉」です。日本開国の歴史の裏で、17歳の少女が偉人の妾となって人生の歯車を狂わされ、はかなく散った「唐人お吉」の物語はあまりにも有名です。当館では、彼らの遺品などを用いてその人生と当時の下田に光を当てます。