1854年4月24日=嘉永7年3月27日
吉田松陰が下田湊に停泊中のペリーの黒船で海外密航を図った事はよく知られていますが、168年前の4月24日が決行した日です。
松陰と弟子の金子重輔は夜半、柿崎弁天島から伝馬船で沖に漕ぎ出しました。旗艦ポーハタン号への乗船までは成功しましたが、海外渡航は拒否されボートで岸に送り帰されました。翌日早朝柿崎名主平右衛門家へ行き、下田奉行所に自首の取り次ぎをさせ、夜同心が引き取りに来ました。2人は江戸に護送され、故郷の萩に帰されました。
松陰は萩の「松下村塾」で子弟の教育に当たるわけですが、その弟子達が密かに海外渡航(留学)を果たし、新しい知識を身につけ帰国、明治維新・新たな日本建設の役割を果たしました。