黒船来航により、日本で一番最初に港が開かれた街、下田の記念博物館

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163年前の7月26日

163年前の7月26日

1858年7月26日=安政5年6月16日
ロシア使節プチャーチンは嘉永7年11月(1854年12月)、下田を襲った大津波で乗艦ディアナ号が大破し、後沈没するという困難の中で日露和親条約を結び、伊豆西海岸の戸田で建造した代船「ヘダ号」帰国しましたが、安政4年8月(1857年)に長崎に来て日露追加条約を結びました。さらに163年前、翌年1858年7月26日には、汽船アスコリド号で再び下田訪問を行いました。目的は、日露通商条約締結に向け、アメリカ総領事ハリスに会い、情報を得るためでしたが、ハリスは江戸に向っていたため会えませんでした。なお、この時アスコリド号の船員が病気で10人を稲田寺に預けましたが1人死亡し、9人は翌月ロシア艦が引き取りにきました。死亡した1人は機関士フィリップ・ユーデンで、墓は、プチャーチンの最初の下田来航時の乗艦ディアナ号の3人の将兵の墓と共に下田市柿崎の玉泉寺にあります。