黒船来航により、日本で一番最初に港が開かれた街、下田の記念博物館

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167年前の1月14日

167年前の1月14日

1854年1月14日=嘉永6年12月16日
167年前の1月14日、大砲鋳造用の反射炉の建設が下田近隣の本郷村(現下田市高馬(たこうま))で始まりました。
嘉永6年(1853)のアメリカ・ペリー来航を契機に幕府は外国船から江戸を守るため、品川に台場を築くこと、台場に備える鉄製大砲を鋳造する反射炉の築造を決定しました。 そして、台場と反射炉築造の担当に任命されたのが、天保中頃(1830年代)より幕府に西洋砲術を取り入れた海防策などを幾度も建議をした韮山代官江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)でした。
下田・高馬が築造場所が選ばれたのは ① 下田は江戸初期から海の関所(船改番所)が置かれ、海上交通、海からの江戸防衛の拠点の湊で、幕末まで幕府の直轄地で、韮山代官江川氏の支配地であったこと。② 反射炉建設の資材や原料鉄の搬入と、生産した大砲の搬出・回送の便に適した場所であり、又砲筒の中繰(なかぐり)の錐(きり)は水車を利用するので川通りに築造することも条件でした。
安政元年(1854)3月、日米和親条約が結ばれ、下田は即時開港となり、ペリー艦隊7隻(乗組員は千数百人)が入港、その水兵たちが建設途中の反射炉敷地内に侵入する事件が起きました。反射炉は軍事機密であり、機密保持のため急きょ反射炉建設地を韮山代官所に近い田方郡中村(現伊豆の国市)に移転することになりました。建設途中の高馬反射炉の耐火煉瓦などは全て韮山に運ばれ、高馬は元の農村に戻りました。
なお、韮山反射炉は2015年世界遺産に登録されました。