1854年1月18日=嘉永6年12月20日
北方の国境画定と日本との通商の協議のためパルラダ号他3隻で長崎に来ていたロシア使節プチャーチンと、日本全権、大目付格筒井政憲(まさのり)、勘定奉行川路聖謨(としあきら)との交渉が166年前の1月18日に始まりました。長崎で数回の交渉が行われましたが、ロシア側はクリミア戦争の勃発の危機があり、日本側は将軍家慶の死去により互いの主張を述べあったのみで中断しました。
日露交渉は長崎と同じ交渉委員で翌 年末下田で再開され、1855年2月7日、下田の長楽 寺で日露和親条約が結ばれました。