1804年10月9日=文化元9月6日
ロシアは江戸時代の中頃から日本関心を持ち、使節を派遣してきました。
第1回目は1792年で、ロシア女帝エカレリーナⅡ世の時で、アダムス・ラックスマンを漂流民大黒屋光太夫ら3人を日本に届け、通商を求める使節として日本に派遣し、根室に入港しました。幕府は松前でロシア使節ラックスマンと交渉し、通商は断わり、長崎への入港許可証を与え、漂流民大黒屋光太夫らを引き取りました。
第2回目が215年前の10月9日でした。使節ニコライ・レザノフは仙台漂流民津太夫ら4人を伴い長崎に入港、通商を求めるました。しかし幕府は火薬と銃器の引き渡しを求め上陸を許しませんでした。翌年3月、江戸から目付遠山金四郎が着き会見は行われましたが、漂流民は引き取るが交易は行わないとの答えでナジェーダ号は長崎を出港しました。
1858年10月9日=安政5年9月3日
長い間鎖国を続けてきた日本は1854年、アメリカと、翌年ロシアと和親条約を結び下田、箱館などの港を開きましたが、貿易をするといううことではありませんでした。その後アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが来日、下田に領事館を開設し、交渉の末1858年7月修好通商条約を結び、鎖国を止め貿易のために横浜、神戸、新潟等の港を開くことになりました。
以後数ヶ月の間にオランダ、ロシア、イギリス、フランスと同内容の修好通商条約を結びました。161年前の10月9日はフランスと仏修好通商条約を調印した記念日です。