黒船来航により、日本で一番最初に港が開かれた街、下田の記念博物館

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151年前の10月5日

151年前の10月5日

11871年年10月5日=明治4年8月21)
伊豆半島最南端にある石廊埼灯台は、151年前の1871年10月5日(明治4.8.21)完成初点灯しました。1871年1月1日初点灯した下田南沖11KMにある神子元島灯台と同じく、お雇い英国人のR・Hブラントンによって建造されました。 当初は塔高6.1㍍、八角型の木造白塗りで、赤色不動光の光が点灯されました。これが日本最初の洋式木造灯台でした。
しかし1932年(昭和7)年11月14日の台風で大破したため、灯塔を鉄筋コンクリート造りにし、再建工事にとりかかり1933年(昭和8)3月31日完成しました。塔高11.38m、水面からの灯高59.54m。現在の灯台であす。
1993年(平成5)灯台の全面がタイル張りに改修され、レンズも直径40cmのビーコンレンズとなり、灯質の周期も国際基準を満たすため、毎16秒に白1閃光、赤1閃光に改められました。
石廊崎は伊豆半島の最南端に位置し、太平洋を相模灘と駿河湾とに二分するように岬が突き出しています。ここは昔から波荒い海の難所であり、この灯台の場所には江戸時代の初期から「長津呂湊明堂(ながつろみなとあかしどう)」があり、洋式灯台が建設されるまで235年間海の守りとして重要な使命を果たしてきました。

124年前の9月22日

1898年9月22日=明治31年9月22日
124年前の9月22ヒ下田船渠合資会社が設立されました。下田では江戸時代から造船が行われており、ペリーの黒船艦隊来航の記録にも記されています。
幕末から明治の下田の造船業は現在の市街地と武ヶ浜の間の中洲にあり、 船大工の棟梁は14名居り、その配下の大工、徒弟、関連職人を含め100人以上の造船関係者がいました。
伊豆の造船の歴史は古く、万葉集にも「伊豆手船」と出、またロシア使節の乗艦ディアナ号が津波で破壊され沈没し、その代船「ヘダ号」の建造で洋式造船発祥の地でもあります。
近代的な造船業を目指して造船所仲間や有力者で下田船渠合資会社を設立し、多くの困難に中で下田町鵜島に石造りの200トンドライドックを完成させ、1901年事業を開始しました。

166年前の9月15日

1856年9月15日=安政3年8月17日
アメリカ総領事タウンゼント・ハリスは下田の玉泉寺に領事館を開き、下田で生活するのですが、5人の中国人を料理人、洗濯夫等として伴ってきました。さらに166年前の9月15日には2人の下田の少年が柿崎玉泉寺の米国領事館に住み込みの召し使いとして雇われました。総領事ハリス付きとして村山滝蔵(16才)、秘書兼通訳ヒュースケン付きとして西山助蔵(15才)です。両名とも身分は下田奉行所の足軽で、米国領事館からの手当は、それぞれ月1両2分でした。
翌年10月ハリスがは出府し、将軍家定に謁見し、幕府と修好通商条約の交渉に入るのですが、両名ともこの出府に随行しています。またハリスが公使に昇任し、安政6年5月下田の玉泉寺領事館を閉じ、江戸麻布善福寺を公使館としたが、両名とも善福寺に移っています。そして文久2年(1862)ハリスが帰国するときには滝蔵は一緒に米国に渡り日帰国し東京の米国公使 館に勤めた。
一方の助蔵は、明治3年まで、4代の公使に仕え29才の時時郷里の中村に帰りまし