黒船来航により、日本で一番最初に港が開かれた街、下田の記念博物館

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1768年前の6月30日

1768年前の6月30日

1846年6月30日=弘化3年閏5月7日
下田が日本最初の開港場となったのは1854年3月31日、アメリカのペリー提督と結んだ日米和親条約によります。実はペリー以前にもアメリカは日本に使節を派遣し通商を求めています。
176年前の6月30日、アメリカの提督ビッドルが軍艦2隻を率いて浦賀に来航し通商を求めましたが、幕府は鎖国の国法を伝え、引き取らせました。

 

168年前の6月22日(嘉永7年5月27日)

この年4月、日本最初の開港場となった下田に黒船艦隊を率いて来航したペリーは、日本での任務を終え帰国の途に就くに当たって、アメリカのポトマック河畔に建設中のワシントン記念塔に使用する石材として下田の石の提供を申し出ました。それに応えて、下田在高馬辺りから3尺角の石を切り出し、加工の上、168年前の6月22日(嘉永7年5月27日)米艦に積み込みました。この石はワシントン記念塔の階段の220段目にはめ込まれており、「嘉永甲寅のとし五月伊豆の国下田より出す」と刻されています。
なおぺりーはこの3日後の6月25日、ポーハタン号、ミシシッピー号、サザンプトン号を率いて下田を出港し帰路に就きました。

168年前の6月17日、165年前の6月17日

1854年6月17日(嘉永7年5月22日)
この年の3月31日(和暦3月3日)結ばれた神奈川条約(日米和親条約)で下田が開港され、ペリーの黒船艦隊が下田に入港しました。
神奈川条約の交渉委員の林大学頭等も下田に来て、更に交渉を進め、168前の6月17日、下田了仙寺で日米和親条約付録下田条約十三ケ条が締結されました。内容は、米人の歩行範囲は港内の犬走島から7里以内。了仙寺と玉泉寺を米人の休息所とし、埋葬所は玉泉寺とする。購入は奉行書役人を通すこと、等々です。

1857年6月17日(安政4年5月26日)

165年前のタウンゼント・ハリスは1856年8月、初代アメリカ総領事として下田に着任すると、下田奉行に日用品の自由買い入れ、通貨交換比率改定等を申し入れました。 江戸出府の要請や看護婦(実は侍妾)雇い入れ等々もあり、紆余曲折を経て、165年前の6月17日、下田奉行とで下田協定を調印しました。通貨交換比率(同種同量、1ドル=3分)、領事及び領事館員の品物の直買、長崎の開港、領事の国内旅行権、領事裁判権など9ケ条です。