2018年8月アーカイブ

1854年8月18日(嘉永7年6月24日)
   164年前の今日アメリカ商船レディ・ピアス号が越後国八幡丸の漂流民勇次郎(勇之助)送還のため下田入港しました。
 八幡丸はエトロフ島内ベットフという所へ塩鱒を積み請けに航海の帰路、出羽国小島沖にて南風に遭い船は破れて航行不能になり、津軽海峡から太平洋に漂流、乗員13名の内唯1人命を保ちアメリカ船に救助されサンフランシスコへ渡りました。サンフランシスコで11ヶ月間日を送り、幸い日本行きの商船レディ・ピアスに便船を許されました。
 取り調べに当たった下田奉行支配組頭伊佐新次郎の報告書には勇之助は優秀で蘭学、アメリカ文字も解り、英語通訳になることも勧めたとあります。しかし勇次郎は故郷へ帰りたい思いが強く、無事領主上杉家に渡されました。


 

1754年8月14日(宝暦4年6月26日)
  264年前の今日、下田で保護していた南京船の漂民71名を長崎に護送ました。
 宝暦3年(1753)12月10日、長崎往来の南京商船が遭難し、八丈島に漂着しました。廣南船主「高山輝」「程剣南」71人乗り組み。南京の乍浦港から長崎に向かう途中暴風雨に逢い、舵を失うなどの破船をしました。
  八丈島で荷物を陸揚げし、その地では約半年間、食料を与えるなど保護し、翌年6月上旬、11隻の船に乗せて下田に護送しました。下田では71人に住まいを提供し、また病人を看護し1754年8月14日、長崎に護送すべく筑前船2隻乗せ送り出しました。

1858年8月10日(安政5年7月2日)
   160年前の今日英国蒸気艦隊3隻が英国使節エルギン卿を乗せて下田に入港しました。目的は通商条約締結交渉で江戸に向かうにあたり、情報収集の為で、下田奉行や下田駐在のアメリカ総領事ハリスに会い、3日後江戸に向かいました。
 ハリスの秘書兼通訳のヒュースケンはイギリスに協力するため同行し江戸に向かいました。そして日英修好通商条約が結ばれたのは17日後の8月27日でした。

1852年8月9日(嘉永5年6月24日)
 下田は1854年日米和親条約で日本最初の開港場となった地ですが、それ以前から外国船が入港を試みた港です。   166年前の今日、ロシアのメンシコフ号が7人の日本人漂流民を伴い下田入港しましたが、上陸を拒否され、漂流民はボートで数キロ離れたで中木へ上陸しました。この漂流民は紀州船天寿丸の乗組員で、嘉永3年正月大風で漂流し、蝦夷地でアメリカ捕鯨船に救助されました。ペトロハバロフスクに入港後アラスカから上海へ向かうメンシコフ号に便乗し日本帰国を図ったのです。中木にボートで上陸した天寿丸の漂流民は、韮山代官、江戸町奉行の吟味 をへて紀州藩へ引き渡され故郷へ帰りました。

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