2018年7月アーカイブ

1858年7月23日(安政5年6月13日) 
   160年前の今日、米艦ミシシッピー号が下田に入港し、下田駐在の米国総領事ハリスに、英・仏連合軍が清国を屈服させ日本に向かう等の情報を伝えました。 ハリスと幕府はこの数ケ月間交渉を重ね、日本は鎖国をやめ、アメリカと自由貿易をする等の内容の日米通商条約に合意していました。しかし、幕府が朝廷の了解を得られず調印が延び延びになっていたのです。ハリスは、日米通商条約の調印ができれば、日本がは英・仏との間で武力衝突など起きればアメリカが仲介すると言い、早急に調印し、英仏来日に備えるよう幕府を説得しました。結果その時の大老の井伊直弼は朝廷の了解無しでの調印を決断し、29日、神奈川小柴沖米艦ポーハタン号上で日米修好通商条約締結がされました。

 1855年7月14日(安政2年6月1日)  
   1854年12月、ロシア使節プチャーチンの乗艦ディアナ号は下田港に停泊中、安政の大津波により大破し、修理のため西伊豆の戸田(現沼津市戸田)に回航途中富士沖で沈没してしまいました。ディアナ号の約500名のロシア将兵は助けられ戸田に滞在し、ディアナ号の代船として建造された「ヘダ号」やアメリカ商船をチャーターし、3回に別け帰国の途につきました。
 1回目は1854年4月11日米船カロラインフート号で159名が、2回目は5月8日、戸田で建造された「ヘダ号」でプチャーチン以下48名が、そして163年前の今日第3次としてロシア将兵278名が商船船グレタ号で帰国の途につきました。 しかし出航後、オホーツク海で敵対関係にあったイギリス軍艦に拿捕され、ロシア将兵は捕虜となり、ロシアに帰ったのはイギリスの講和が成立した後、翌年でした。なお、この船で元掛川藩士の橘耕齋(たちばなこうさい)がロシアへ密出国しています。

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)    
  幕末、鎖国の日本に開国を迫るためアメリカは日本にペリー提督を派遣したことはよく知られていますが、ペリーが4隻の黒船で浦賀へ来航したのは165年前の今日でした。旗艦(ペリーの乗艦)は蒸気船サスケハナ号で他の3隻は、蒸気船ミシシッピー号、帆船プリマス号、帆船サラトガ号でした。
 ペリーは幕府に開国を求める大統領の国書の受理を迫り、幕府は拒絶する事の困難を感じ、やむを得ず翌日国書を受け取り、1年後に回答することを約束しました。

1859年7月7日(年安政6年6月8日)     
 1856年8月初代アメリカ総領事として下田に着任したタウンゼント・ハリスは、下田奉行や幕府高官と交渉の結果1858年7月29日米修好通商条約を結びを結び公使に昇任しました。
 通商条約締結という大任を果たしたハリスは翌年3月長崎・上海・香港方面の旅行に出、6月には下田の領事館を閉じ江戸に向かいました。そして159年前の今日、江戸麻布の善福寺を公使館としました。


 

ホームページへ

このアーカイブについて

このページには、2018年7月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

ウェブページ

Powered by Movable Type 5.04