2017年4月アーカイブ

1854.4.24(嘉永7.3.27)
   吉田松陰が下田湊に停泊中のペリーの黒船で海外密航を図った事はよく知られていますが、163年前の今日が決行した日です。
  松陰と弟子の金子重輔は夜半、柿崎弁天島から伝馬船で沖に漕ぎ出しました。旗艦ポーハタン号への乗船までは成功しましたが、海外渡航は拒否されボートで岸に帰されました。翌日早朝柿崎名主平右衛門家へ行き、下田奉行所に自首の取り次ぎをさせ、夜同心が引き取りに来ました。2人は江戸に護送され、故郷の萩に帰されました。  松陰は萩の「松下村塾」で子弟の教育に当たるわけですが、その弟子達が密かに海外渡航(留学)を果たし、新しい知識を身につけ帰国、明治維新・新たな日本建設の役割を果たしました。

 

1854.4.21(嘉永7.3.24)
  下田開港に伴い163年前の今日、下田奉行が設置され、浦賀奉行伊沢美作守が下田奉行に任じられました。とりあえずお宝福寺を仮奉行所としました。
 江戸時代下田には3回下田奉行が置かれました。第1次は1616年から1721年(元和2年~享保6年)で下田に海の関所が置かれたときで、14代 15人(第8代は2人制)でした。第2次は1842年から1844年(天保13~弘化元年)で日本近海に外国船が多く姿を見せるようになり海防のため下田に奉行を設置しましたが幕府は財政難で2年で廃止しました。2人制で2名でした。第3次が159年前で、横浜が開港し、日本最初の開港場下田が閉港になるまで(1854年から1860年、嘉永7年~万延元年)、2人制で5人の奉行でした。

 

 ① 1855.4.20(安政2.3.4)
 162年前の今日、フランス軍艦コンスタンチン号がクリミア戦争で敵対しているロシア軍艦探索のため下田に入港しましたが、下田奉行はフランスは日本とは無条約の国のであるとして上陸を拒否、退帆を求めました。   なお、下田入港のロシア軍艦ディアナ号は3ケ月前の大津波で大破、沈没し、ロシア将兵は伊豆半島根元の戸田に滞在中でした。

②1934.4.20(昭和9.4.20) 83年前の今日、下田開港80周年を記念して第一回黒船祭りが開催されました。グルー米国大使夫妻、野村吉三郎海軍大将が軍艦島風で入港参加。  以後第2次世界大戦による中断はありましたが毎年黒船祭りは開催されています。(現在は例年5月第3週の金・土・日曜日)
 

1854.4.18(嘉永7.3.21)
  163年前の今日、アメリカのペリー提督搭乗の蒸気艦ポーハタン号とミシシッピー号が午後2時頃下田入港しました。
  この3月31日締結された日米和親条約で下田は即時開港となり、ペリーの黒船艦隊は15日から順次下田に入港しました。合計7隻(内蒸気船は2隻)となりアメリカ将兵は1200数十名でした。

  この日以来、5年後に横浜が開港するまで、下田は外国との窓口の地となり歴史上重要ないろいろな出来事がありました。
 

1854.4.15(嘉永7.3.18)
  幕末の思想家、吉田松陰が下田入港のアメリカ・ペリーの黒船で海外渡航を計った事はよく知られていますが、163年前の今日は松陰と弟子の金子重輔がペリーの黒船艦隊を追って下田着いた日です。この日は岡方屋に投宿しますが、松陰は皮膚病・疥癬を発し、2日後蓮台寺温泉に行き浴湯し、医師村山行馬郎宅泊に泊まりました。以後蓮台寺と下田を行き来し黒船へ乗る機会を狙います。

 

ホームページへ

このアーカイブについて

このページには、2017年4月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

ウェブページ

Powered by Movable Type 5.04