1854.6.22(嘉永7.5.27)
  この年4月、日本最初の開港場となった下田に黒船艦隊を率いて来航したペリーは、日本での任務を終え帰国の途に就くに当たって、アメリカのポトマック河畔に建設中のワシントン記念塔に使用する石材として下田の石の提供を申し出ました。それに応えて、下田在高馬辺りから3尺角の石を切り出し、加工の上、163年前の今日米艦に積み込みました。この石はワシントン記念塔の階段の220段目にはめ込まれており、「嘉永甲寅のとし五月伊豆の国下田より出す」と刻されています。  なおぺりーはこの3日後の6月25日、ポーハタン号、ミシシッピー号、サザンプトン号を率いて下田を出港し帰路に就きました。

 

1857.6.18(安政4.5.27)
  幕末下田でアメリカ総領事ハリスには「お吉」が、秘書のヒュースケンには「お福」が仕えたことはよく知られていますが、実際にはハリスには3名のヒュースケンには4名の若い女性が仕えています。
 160年前の今日、「お福」(下田町弥次川町平気吉後家つじ娘15才)が玉泉寺に滞在のヒュースケンの許へ出仕した日です。仕度金20両、月手当7両5分でした。しかし、ハリス、ヒュースケンが江戸出府のため、10月4日暇を出されました。

 

 ①1854.6.17(嘉永7.5.22)
 この年の3月31日(和暦3月3日)結ばれた神奈川条約(日米和親条約)で下田が開港され、ペリーの黒船艦隊が下田に入港しました。神奈川条約の交渉委員の林大学頭等も下田に来て、更に交渉を進め、163年前の今日、下田了仙寺で日米和親条約付録下田条約十三ケ条が締結されました。内容は、米人の歩行範囲は港内の犬走島から7里以内。了仙寺と玉泉寺を米人の休息所とし、埋葬所は玉泉寺とする。購入は奉行書役人を通すこと、等々です。

 

①1857.6.17(安政4.5.26)
  タウンゼント・ハリスは1856年8月、初代アメリカ総領事として下田に着任すると、下田奉行に日用品の自由買い入れ、通貨交換比率改定等を申し入れました。
  江戸出府の要請や看護婦(実は侍妾)雇い入れ等々もあり、紆余曲折を経て、160年前の今日、下田奉行とで下田協定を調印しました。通貨交換比率(同種同量、1ドル=3分)、領事及び領事館員の品物の直買、長崎の開港、領事の 国内旅行権、領事裁判権など9ケ条です。

 

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