黒船来航により、日本で一番最初に港が開かれた街、下田の記念博物館

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158年前の1月24日

158年前の1月24日

1861年1月24日(安政7.12.14)
 1858年7月29日(安政5.6.19)、幕府はアメリカ総領事タウンゼント・ハリスと日米修好通商条約を結び、神奈川、長崎、兵庫、新潟、箱館の開港などを決めました。この条約で日本は鎖国を止め世界の仲間入りする事になった訳です。そしてその後3ケ月に満たない間にオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同内容の修好通商条約を結びました。(安政の5ヶ国条約と呼んでいます) 以後もヨーロッパ各国は使節を日本に派遣し通商条約の締結を迫るのです が、158年前の今日はプロシャと日普修好通商条約を結んだ日です。

165年前の1月18日

 1854年1月18日(嘉永6.12.20) 北方の国境画定と日本との通商の協議のためパルラダ号他3隻で長崎に来 ていたロシア使節プチャーチンと、日本全権、大目付格筒井政憲、勘定奉行 川路聖謨との交渉は165年前の今日始まりました。長崎で数回の交渉が行わ れましたが、ロシア側はクリミア戦争の勃発の危機があり、日本側は将軍家慶の死去により互いの主張を述べあったのみで中断しました。日露交渉は長崎と同じ交渉委員で翌 年末下田で再開され、1855年2月7日、下田の長楽 寺で日露和親条約が結ばれました。

165年前、164年前、159年前の1月14日

①1854年1月14日(嘉永6.12.16)
165年前の今日、下田在本郷に反射炉の建造工事を始めました。 海防の専門家でもある韮山代官江川太郎左衛門の建議で、大砲鋳造用の反射炉の建設が下田近隣の本郷村で始まりました。しかし、3ケ月後、下田が開港場となり、ペリーの黒船艦隊が下田に入港し、外国人が工事現場に侵入するのを避けて韮山(現伊豆の国市韮山)に移すことになり、安政4年(1857年)に完成しました。今は国の史跡に指定されています。

②1855年1月14日(嘉永7.11.26)
 164年前の今日、下田港滞船中のロシア使節プチャーチンの乗艦ディアナ号が下田を襲った大津浪で大破損し、修理のため戸田に向け下田を出帆しました。1854年12月4日(嘉永7年10月15日)ロシア使節プチャーチンは、北方の国境画定と日本との通商の協議のためディアナ号で下田へ来航しました。下田到着後、大津浪に襲われディアナ号は大破し、その修理場所が伊豆半島根元の戸田村(現沼津市戸田)と決まり、下田の廻船問屋綿屋の千石船に付き添われ修理地に向かいました。しかしディアナ号はその5日後富士沖で風波が強く沈没してしまいました。ロシア将兵約500人全員と重要書類などは付近の住民に助けられ、戸田まで送り届けられました。ロシアの将兵は代船を建造し、またアメリカの船をチャーターして故国へ帰るのですが、それまでの約6ケ月間戸田で生活しました。

③1860年1月14日(安政6.12.22)
1858年、幕府はアメリカと日米修好通商条約を結びました。そして3ケ月に満たない間にオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同内容の修好通商条約を結びました。これを契機に国内の攘夷運動は激しさを増し、幾件もの外国人殺傷事件が起きました。159年前の今日、オランダ人2名が横浜で殺害されました。犯人は不明です。