1854.1.18(嘉永6.12.20)  北方の国境画定と日本との通商の協議のためパルラダ号他3隻で長崎に来 ていたロシア使節プチャーチンと、日本全権、大目付格筒井政憲、勘定奉行 川路聖謨との交渉は164年前の今日始まりました。長崎で数回の交渉が行わ れましたが、ロシア側はクリミア戦争の勃発の危機があり、日本側は将軍家慶の死去により互いの主張を述べあったのみで中断しました。日露交渉は長  崎と同じ交渉委員で翌 年末下田で再開され、1855年2月7日、下田の長楽  寺で日露和親条約が結ばれました。

1861.1.15(安政7.12.5)
 157年前の今日、アメリカ初代総領事ハリスの秘書兼通訳のヘンリー・ヒュースケンが江戸の芝赤羽で攘夷派に襲われ死亡しました。  彼は1856年、米国総領事ハリスの秘書兼通訳として下田に着き、ハリスの片腕としてハリスを助け、また日本に通商を求める西欧諸国の手伝いもしました。事件はプロシャの使節団の宿舎を訪れた帰りに起きました。29才の誕生日を前にして死亡しましたが、その短い人生のうち4年5ケ月日本に滞在し、日本開国の歴史上重要な役割を果たしました。

 

 ①1854.1.14(嘉永6.12.16) 164年前の今日、下田在本郷に反射炉の建造工事を始めました。  海防の専門家でもある韮山代官江川太郎左衛門の建議で、大砲鋳造用の反射炉の建設が下田近隣の本郷村で始まりました。しかし、3ケ月後、下田が開港場となり、ペリーの黒船艦隊が下田に入港し、外国人が工事現場に侵入するのを避けて韮山(現伊豆の国市韮山)に移すことになり、安政4年(1857年)に完成しました。今は国の史跡に指定されています。

②1855.1.14(嘉永7.11.26)
  
163年前の今日、下田港滞船中のロシア使節プチャーチンの乗艦ディアナ号が下田を襲った大津浪で大破損し、修理のため戸田に向け下田を出帆しました。 1854年12月4日(嘉永7年10月15日)ロシア使節プチャーチンは、北方の国境画定と日本との通商の協議のためディアナ号で下田へ来航しました。下田到着後、大津浪に襲われディアナ号は大破し、その修理場所が伊豆半島根元の戸田村(現沼津市戸田)と決まり、下田の廻船問屋綿屋の千石船に付き添われ修理地に向かいました。しかしディアナ号はその5日後富士沖で風波が強く沈没してしまいました。ロシア将兵約500人全員と重要書類などは付近の住民に助けられ、戸田まで送り届けられました。ロシアの将兵は代船を建造し、またアメリカの船をチャーターして故国へ帰るのですが、それまでの約6ケ月間戸田で生活しました。

③1860.1.140(安政6.12.22)
 
1858年、幕府はアメリカと日米修好通商条約を結びました。そして3ケ月に満たない間にオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同内容の修好通商条約を結びました。これを契機に国内の攘夷運動は激しさを増し、幾件もの外国人殺傷事件が起きました。158年前の今日、オランダ人2名が横浜で殺害されました。犯人は不明です。

 

1855.1月頃(安政2.1月頃)
  163年前の1月、下田町中村(現下田警察署付近)に下田奉行所が建てられました。 下田は1854年3月3日(嘉永7年3月31日)横浜で幕府とアメリカの使節ペリーとの間で結ばれた「日米和親条約」で日本最初の開港場となり、ペリーの黒船艦隊が入港してきました。 江戸時代を通して下田は幕府の直轄地で、この頃は韮山代官の支配でしたが、開港場となり外国の船や人が来ることから下田奉行が置かれ、当所は町中の宝福寺そして稲田寺が仮奉行所となりました。 安政2年(1855年)、中村に約1万坪の田地を埋め立て、江戸の大棟梁(今のゼネコン)辻内近江が1万6千両で下田奉行所屋敷を建設しました。下田奉行所には役人から通訳まで140人ほどがいました。万延元年(1860)下田奉行は廃止となり、奉行所も取り壊され、木材等は神奈川へ運ばれました。