1898年9月22日(明治31年9月22日)
  120年前の今日、下田船渠合資会社が設立されました。下田では江戸時代から造船が行われており、ペリーの黒船艦隊来航の記録にも記されています。
 幕末から明治の下田の造船業は現在の市街地と武ヶ浜の間の中洲にあり、 船大工の棟梁は14名居り、その配下の大工、徒弟、関連職人を含め100人以上の造船関係者がいました。
 伊豆の造船の歴史は古く、万葉集にも「伊豆手船」と出、またロシア使節の乗艦ディアナ号が津波で破壊され沈没し、その代船「ヘダ号」の建造で洋式造船発祥の地でもあります。
   近代的な造船業を目指して造船所仲間や有力者で下田船渠合資会社を設立し、多くの困難に中で下田町鵜島に石造りの200トンドライドックを完成させ、1901年事業を開始しました。

1856年9月15日(安政3年8月17日)
 アメリカ総領事タウンゼント・ハリスは下田の玉泉寺に領事館を開き、下田で生活するのですが、5人の中国人を料理人、洗濯夫等として伴ってきました。さらに162年前の今日、2人の下田の少年が柿崎玉泉寺の米国領事館に住み込みの召し使いとして雇われました。総領事ハリス付きとして村山滝蔵(16才)、秘書兼通訳ヒュースケン付きとして西山助蔵(15才)です。両名とも身分は下田奉行所の足軽で、米国領事館からの手当は、それぞれ月1両2分でした。
 翌年10月ハリスがは出府し、将軍家定に謁見し、幕府と修好通商条約の交渉に入るのですが、両名ともこの出府に随行しています。またハリスが公使に昇任し、安政6年5月下田の玉泉寺領事館を閉じ、江戸麻布善福寺を公使館としたが、両名とも善福寺に移っています。そして文久2年(1862)ハリスが帰国するときには滝蔵は一緒に米国に渡り日帰国し東京の米国公使 館に勤めた。
 一方の助蔵は、明治3年まで、4代の公使に仕え29才の時時郷里の中村に帰りました。

1858年9月13日(安政5年8月7日)
  160年前の今日、フランス全権使節グロー男爵が、仏蒸気艦隊(「ラプラス号」「プレジャン号」「オーダーシューズ号」)で下田に来航しました。
 条約締結を要求し、アメリカ総領事ハリスに会い情報収集を行い、18日に江戸に向かいました。下田には5日間滞在したのですが、当時の下田の町会所 日記等に次のような記録があります。『フランス人上陸市中歩行し、御用所にて買い物する』『暮れ六ツ時頃フランス士官のもの4人、銭湯で覗き見をする』『フランス船へ石炭2万5千斤積み送る』『異人2人柿崎村又助方へ来て水を乞う、たばこ2本置いていく』などなど。
  なお日仏修好通商条約は江戸で10月9日結ばれました。  

 

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