2017年10月アーカイブ

 ①1856.10.23(安政3.9.25)
 初代米国総領事タウンゼント・ハリスは1856年9月下田に着任し、以後約3年間下田で生活することになるのですが、着任2年前結ばれた日米和親約と付録下田条約では、買い物は決められた場所で下田奉行所の役人をを通じて行い、1ドル=金1分(金4分で1両)との取り決めでした。161年前の今日ハリスは下田奉行所に日用品の自由買い入れと通貨交換比率改定の申し入れをしました。この申し入れは翌年3月に日本側と合意に達しました

 ②1868.10.23(慶応4.9.8)
149年前の今日、明治と改元しました。

 

1852.10.19 (嘉永5.9.7)  ロシアは江戸時代の中頃から日本関心を持ち、使節を派遣してきました。第1回目は1792年にアダムス・ラックスマンを、第2回目が1804年で使節はニコライ・レザノフでした。しかし2回とも幕府は鎖国を楯に拒否をしました。アメリカのペリーが日本遠征を行う情報を得たロシアは、3回目の使節プチャーチンを日本に派遣することしました。
  165年前の今日プチャーチンはパルラダ号で日本にむけクロンシュタット出帆翌年8月長崎着。更に伊豆下田に向かい、そこで大津波で乗艦を失うなど多くの困難がありましたが、1855年2月、日露和親条約を結び、帰国したのは3年後の事でした。

 

1953.10.17(嘉永6.9.15)
  徳川幕府は1635年(寛永12)500石以上の大型船の建造を禁止しました。これは大名の軍船を規制するためで、2年後には軍船を除き大型船の建造を許可し、以後いわゆる千石船による海運が発達しました。 しかし18世紀末頃から外国船が日本近海に姿を見せるようになり、幕府は鎖国を守ろうと色々な施策を講じましたが、大型軍船の必要にせまられ、164前の今日ついに大船建造禁止を解除しました。そして幕府は1854年浦賀に造船工場を開き、3本マスト(長さ22間、巾5間)の鳳凰丸を建造し、薩摩藩(昌平丸・3本マスト、長さ15間、巾4間)、水戸藩(旭日丸)等も洋式船の建造に向かいました。

 

 ①1804.10,9(文化元9.6)
 ロシアは江戸時代の中頃から日本関心を持ち、使節を派遣してきました。第1回目は1792年で、ロシア女帝エカレリーナⅡ世の時で、アダムス・ラックスマンを漂流民大黒屋光太夫ら3人を日本に届け、通商を求める使節として日本に派遣し、根室に入港しました。幕府は松前でロシア使節ラックスマンと交渉し、通商は断わり、長崎への入港許可証を与え、漂流民大黒屋光太夫らを引き取りました。 
   第2回目が213年前の今日でした。使節ニコライ・レザノフは仙台漂流民津太夫ら4人を伴い長崎に入港、通商を求めるました。しかし幕府は火薬と銃器の引き渡しを求め上陸を許しませんでした。翌年3月、江戸から目付遠山金四郎が着き会見は行われましたが、漂流民は引き取るが交易は行わないとの答えでナジェーダ号は長崎を出港しました。

 

②1858.10.9(安政5.9.3)
 長い間鎖国を続けてきた日本は1854年、アメリカと、翌年ロシアと和親条約を結び下田、箱館などの港を開きましたが、貿易をするといううことではありませんでした。その後アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが来日、下田に領事館を開設し、交渉の末1858年7月修好通商条約を結び、鎖国を止め貿易のために横浜、神戸、新潟等の港を開くことになりました。 以後数ヶ月の間にオランダ、ロシア、イギリス、フランスと同内容の修好通商条約を結びました。今日はフランスと仏修好通商条約を調印した記念日です。

 

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